運動音痴から見た体育バカの価値観。

体育バカどもには、

  • 身体を動かして汗をかく=努力
  • 頭をつかって物事を考える=努力じゃない

という変な価値基準があるんじゃないかと、こないだ友人Sに言われてとても納得できた。

我々体育嫌いが、体育において学習性無気力となっているのと同じように、彼らも、座学において、学習性無気力を獲得してるが故に、そんなものは努力とは言わーん!とか言うて逃げている。そうして、彼らの「頭を使う=努力じゃない」という価値基準が作られていくんじゃないだろうか。

その価値基準を逆に当てはめるなら、スポーツ選手になった奴がすごいというが、単に大好きな遊びをやっていて、それが、偶然金儲けにつながるようになっているだけなのだ。

しかし、体育嫌いと勉強嫌いには大きな差がある。これはみけたん先生の意見だが、体育嫌いは、体育がイヤだし、体育がしんどいことを重々思い知っているが、勉強嫌いは、勉強はイヤだけど、勉強をすることもしんどいということを理解してない。

だから、奴らは、体育が嫌いな奴のことを想定できないし、そういった奴らを簡単にさげすむ狭隘な性格を獲得するのではと思う。また、スポーツ選手になるプロセスで、体罰を被るということがあるが、他人が行っている、質の違う苦労を想定できないが故に、「自分がされたから」という理由で他人にも軽々しく暴力を振るう。
かくして、そうした暴力的傾向を持つ体育バカは再生産されていく。
このプロセス、児童虐待と非常に似てる気がするのはワテだけだろうか。