結局↑この問題って

教師とクラスメイトという人的リソース側の問題なんだよなぁ。
さらに悪循環なのは、体質あるいは気性的に運動が不得意な者というのは、その深刻度合いが高ければ高いほど、その問題を指導する側に伝える意欲或いはスキルが無い。少なくとも自分の子供の頃を振り返ればそうだったと言えるだろう。
問題が軽微な者は、なんとか伝え、指導する側も、「こうすりゃコイツもできるんだな」と学習できるけれど
ワテみたいなのは重度なだけに、抱えている重篤な問題を、そもそも伝えることすらできないので

「せんせー、できーん」
「なんでできんのや」
「わからーん」
「がんばれ」

なんて会話が展開される。
さらに、ワテの場合、6年の時のその場行進大爆笑事件*1のおかげで、そーいうのを先生に言うたら恥ずかしい思いをするという刷り込みができてしまったが故に、こっちも、「重篤な状態」を開示しなくなってしまって、なおさら「怠け」としか取られなくなったわけだ。
すると、重篤な臨床例でありながら、指導する側に現状がフィードバックされないので、「劣悪な体育教師」を撲滅する流れにたどり着くことはありえないことになってしまう。
そこで、誰か一人でも「劣悪でない体育教師」がいれば

「せんせー、できーん」
「なんでできんのや」
「わからーん」
「そーかー、わからんかー。ほな、なんでできんか、探ってみようか。」

となるだろう。
そうした取り組みができる教師が居れば、事態は変わっていたのかもしれない。
今朝書いていた自閉症の事例でも、「高機能」型は症例と認知されにくい。
例えば明らかに足の使い方がおかしいとか、こちらの声かけに対しての反応がヘンといった、わかりやすい症例があれば「どっか身体機能的な問題ちゃうか」と思い至ることができる。
しかし、障害児クラスにいるわけではない子が、運痴だとしても、身体能力に問題を還元する教師やインストは居らず、そうした臨床例が学術側へとフィードバックされることもない。よって劣悪な体育教師はひたすら再生産され続けるのではないだろうか。
というわけで、この日記の記事がそうした再生産の連鎖を断ち切る一助となれば幸いである。

*1:運動会の入場行進の先頭を仰せつかったワテが、右手と右脚が一緒に出ることを、その指示をした教師が治すわけでもなく、それどころか別の教師を呼んできてまで、大爆笑しやがった事件。過去のエントリで触れている