久しぶりに健康ネットの記事にかみついてみる

まずは運動嫌いの原因を探るという記事の最後の方「運動非実施者に共通する特徴」で、以下の5つの特徴に注目している。

1) 狭小化した運動・スポーツのイメージ
2) 自己概念の固定化
3) 個人的要因の外的要因へのすりかわり
4) 性格特性
5) プロダクト効果予測

特に、性格特性の分析にこうある。

従来、運動心理学の分野では運動選手、スポーツマンの性格特性に関する研究が数多くなされた。これらの研究にみられる彼らの性格特性をあげると、のんきで活動的、社会的指導性に富む、男性的で劣等感が少ない、神経質傾向はなく攻撃的である、野心的で精力的である、愉快で社交性がある、現実性が高い、陰気・悲観的気分・罪悪感などが少ないといったものである。これらの性格をそのまま一般の運動実施者の性格特性として当て嵌めることは軽率ではあるが、該当するところは多分にあると思われる。逆に、運動非実施者の場合には、上記の特性を裏返した性格であると考えられる。特にこのような関係は、集団状況で行われる運動参加状態と関係の深いことが考えられる。
 また、波多野らが大学1年生を対象に行った「運動ぎらいの事例研究」においては、消極的・神経質・臆病・内気・小心・不安感・劣等感といった性格的側面が運動ぎらいの生成要因として位置づけられることを明らかにしている。
 運動非実施者のすべてが「運動ぎらい」であると認めることはできないが、情動における得点の平均値が2.27と低い値を示していることからも、「運動ぎらい」の研究結果にみられた性格的側面を運動非実施者が有する可能性は高いと考えられる。本調査では「皆さんの迷惑になるのも嫌ですから」(T.M運動潜在群)、「人の前で何かをやるのが嫌いで恥ずかしいと思ってしまう」(F.Y運動潜在群)などといった「他人を気にする」「恥ずかしがり」というような性格が認められた。また、「集団で何かを行うことが苦手」(F.Y運動潜在群)などのような非社交的な性格を有する者もいた。さらに、「他人と競争するのがいやで、マイペースでやりたい」(T.M運動潜在群)と運動の競技性を強くイメージした狭小化とともに「劣等感を感じやすい」といった性格を有する者も見受けられた。
 これらの性格は、「くわずぎらい」「不安感」などの運動実施にネガティブな情動に波及していると考えられる。つまり、運動非実施者の情動の内容が運動実施にネガティブであることは、彼らが有する「他人を気にする」「恥ずかしがり」「非社交的な性格」「劣等感を感じやすい」などといった性格に起因すると考えられる。

つまり「性格に問題があるから運動嫌いになった」という流れで理論構成されている。
しかし、その性格はどこから来たものなんだろうか?
成長期における体育や運動の体験において、「運動の競技性を強くイメージした狭小化」させられるような体験、たとえばルールの説明すらしない球技偏重の体育授業や、できないことに延々挑戦させられ、対策を練ろうともしない授業などのネガティブな体験を重ねれば、学習性無気力の状態に陥るであろうことは容易に想像できる。そうすれば性格にも変調を来すのではないだろうか。
そもそも、この研究を出した委員会のメンツを見ると

 杉原隆  東京学芸大学教授
 坂井重遠  (財)余暇開発センター政策研究部長・研究主幹
 佐々木義雄  練馬区教育委員会社会体育課社会教育主事
 山口泰雄  神戸大学助教
      (編註:神戸大学 発達科学部 人間行動学科 身体行動論コース主担当教員 専門分野:スポーツ社会学)
 中込四郎  茨城大学助教
      (編註:現在は筑波大学 人間総合科学研究科(体育科学専攻)・教授)

えーと、どう見ても体育会系の人しか見あたらないんですが…。
そりゃ、「体育・運動」=良いもの。っつー見解からしか論理展開できねーわな。
運動音痴・運動嫌いのメンタルを分析するなら、まずは、その出発点を見直さないと、話にならないと思いますけどねぇ。
さらに、専門が違うのでつつくのはアレかもしれんが、この調査に参加している神戸大学の山口助教授は、中年期における健康・体力つくり 平成7年度 健康・体力つくりに関する懇談会において、そうした運動に参加する人としない人の2極分化の危険性について、こう述べている。

普段運動やスポーツをしない人がやってみようというように動機づけるにはやはり三つあると思うんです。
 一つはネーミングだと思うんです。自治体のスポーツ教室など行きますと、大体、テニス教室、バドミントン教室と、種目名だけしかないんです。それだけで来る人はいつも固定化してしまうんですけれども、例えば先ほど大東さんが言ったように、民間フィットネス・スクールは逆にカタカナが多すぎたんですね。非常にハイセンスなというかファッショナブルな感じはあるんですけれども、なかなか身近に来ないので、快適生活塾だったですか、これは集まったそうですけれども、例えば、「今日から始めるウォーキング」だとか、「泳げない人の水中運動教室」とか、こういうネーミングだとちょっと行ってみようかなという気持ちになるんですね。だからそういうように、やはりもう少し日本語で身近に参加したくなるようなネーミングにするのも一つではないかと思うんです。
 二番目は、例えば公共施設の場合ですと、今使おうと思っても予約しないとほとんど出来ないんです。スポーツ教室を利用している人かあるいは予約しないと使えないということで、予約しなくても出来るというプログラムを用意するということが大事だと思うんです。特に中年層というのは時間的にタイトですから、練馬区でスイミングとかトレーニング・ルームの利用者が多いというのは、予約しなくても行ける、1時間で終わる、こういうところがあるからやはり行けるのではないかという、予約しなくても出来る手軽にさっと行って自分で1人でも出来るという、こういうプログラムを考えるというのは大事ではないかと思います。
 三番目は参加したくなるようなイベントを工夫してやるということが大事ではないかと思うんです。最近、歩く、ウォーキングの大会が増えて、参加者が非常に増えています。普段運動しない人、結構中年層が参加者に多いんですけれども、余りスポーツクラブとかに所属していないんです。サークルにも入っていないんですけれども、ウォーキングの大会だとぱっと行ける。かなり健康意識が高くて、歩くことがいいということが分かっていて、普段かなり歩いている、こういう大会にも出てくるという、こういう参加したくなるようなイベントがあるということが、余り普段しない人にとっての非常にいいきっかけづくりになるのではないかと思います。

えーと、だから、「運動が怖い人」「運動をしていると強迫性障害様の症状を呈する人」への対策になってないと思いますけど?
とりあえず自分のことを振り返るとですね、こーいう「ちょっとでも『体育』の気配のするイベント」の情報は、目にしたり耳にしたりしたとしても、拒絶してたんですよ。
それこそ、ひどい時期、つまり「運動」=「体育」と思ってた頃は「運動しないと、生活習慣病で死ぬよ?」なんて言われても、「運動(=体育)するくらいなら、死ぬのも同じだ!」と拒絶してたわけで。
しかし、「運動音痴」の人との人脈を築きにくい環境にある体育科系の従事者には、そんなことはわからないわけで。
つーわけで、体育大学で運動音痴な大人、中年への対策を検討してくれるなら、私は喜んでモルモットになりましょうぞ。それが、私と同じように、運動音痴だったが故に未だに苦しむ人たちを救うことにつながるのならね。